水瀬ハルは、ため息をついた。
夕方の西日がオレンジ色にそまったリビングで、ランドセルを床に放り投げたまま、ソファにだらーんと寝転んでいた。
「もー、算数なんてきらいー」
今日の授業のことを思い出しながら、ハルはクッションに顔をうずめた。
四年生になって最初の算数の授業。先生が黒板に書いたのは、ハルが見たこともないくらい大きな数字だった。
1,000,000,000,000「これは一兆、と読みます」
先生がさらりと言ったとき、クラス中がざわついた。ハルも目をまるくした。ゼロが何個あるのか数えることすらできなかった。
「一億が一万個集まると一兆です。一兆が一万個集まると……」
そこから先の説明は、ハルの頭の中でぼんやりとした霧のようになって、何も残らなかった。
「ハル、おかえり。今日はどうだった?」
台所からお母さんの声が聞こえてきた。エプロン姿のお母さんが顔をのぞかせ、床に転がったランドセルを見てちょっと眉をひそめた。
「最悪。算数、ぜんっぜんわかんなかった」
「どんな内容だったの?」
「億とか兆とか……すごくおっきい数。ゼロが多すぎてもう頭がぐるぐるする」
お母さんはくすくす笑いながらコップに麦茶を注いで持ってきてくれた。
「お父さんも昔、そこが苦手だったって言ってたよ。夕ごはんのときに聞いてみたら?」
ハルは麦茶をごくごく飲みながら、少しだけ気持ちが楽になった。
夜、夕ごはんのテーブルでハルはお父さんに話しかけた。
「ねえ、お父さん。一兆って、どのくらいおっきいの?」
お父さんは箸を止めて、少し考えてから言った。
「そうだなあ……たとえば、日本全体の国家予算が大体百兆円くらいなんだよ。一年間で国が使うお金の話だよ?」
「ひゃ、百兆……?」
「それから、地球から太陽まで光が届く時間は約八分だろ。でも光が一年間に進む距離を『一光年』って言うんだけど、それが約九兆四千六百億キロメートルなんだ」
「……もう意味わかんない」
お父さんとお母さんが顔を見合わせて笑った。
「ゆっくり覚えていけば大丈夫だよ、ハル。算数は積み重ねだから」
お父さんの言葉は温かかったけれど、ハルの中のもやもやは消えなかった。
大きい数なんて、どうせ生活に関係ないし。
そう思いながら、ハルはお味噌汁をすすった。
その夜、ハルはお風呂に入り、歯を磨き、「おやすみ」を言ってベッドにもぐりこんだ。
枕もとの電気を消すと、部屋はしずかな暗闇につつまれた。カーテンのすきまから月明かりが細く差し込んで、机の上に置いた算数の教科書をぼんやり照らしていた。
明日、また算数の授業があるな……
そう思いながらうとうとしかけたとき。
ぴかっ。電気もつけていないのに、部屋の中が一瞬、やわらかい光に包まれた。
「……え?」
ハルはがばっと起き上がった。
光は机の上の算数の教科書から出ていた。教科書の表紙が、金色と紫色がまじり合ったようなふしぎな光でゆらゆらと輝いている。
「な、なに……?」
こわごわベッドから降りて、ハルは教科書に近づいた。
そのとき。
「ハルちゃん! ハルちゃん、起きてる!?」
小さな、でも元気いっぱいの声がした。
ハルは思わず「ひっ!」と声を上げて後ずさりした。
引き出しの中から、何かが飛び出してきたのだ。
それは、手のひらに乗るくらいの小さな女の子の形をしていた。薄紫色の羽をばたばたと動かして、頭には銀色の星形の飾りをつけている。ちいさなてのひらに、ほのかに光る小さな杖を持っていた。
「やっと起きてくれた!ずっと待ってたんだよ!」
「え、え、なに、あなた、だれ……」
「あたしはピコ!ナンバーランドの守護妖精だよ。ハルちゃんのことをずっと前から見てたんだ。算数の教科書を持ってる子の中から、一番勇気がありそうな子をえらんで——」
「ちょちょちょっと待って!」
ハルは両手をぶんぶん振った。
「声が大きい! お父さんとお母さんに聞こえちゃう!」
「あ、大丈夫だよ。あたしの声、ハルちゃんにしか聞こえないから」
ピコはけろりとした顔で言った。
ハルはそーっとドアに耳を当てた。廊下の向こうはしずかで、両親が起きてきた気配はない。
「……本当に聞こえてないみたい」
ハルはため息をついてから、あらためてピコをじっと見た。
「ナンバーランド、って何?」
ピコの顔がさっと曇った。
「それを話しに来たの。ハルちゃん、大変なことが起きてるんだ」
ピコは算数の教科書の表紙の上にちょこんと座り、真剣な顔でハルに話し始めた。
「ナンバーランドはね、数と形でできた世界なの。川には小数が流れてて、山は三角形や四角形でできてて、木には分数の実がなってる。あたしたちナンバーランドのみんなは、ずっとその世界で平和に暮らしてたんだけど……」
ピコは目をふせた。
「最近、『カオスの霧』が広がってきてるの」
「カオスの霧?」
「まちがいや、あいまいさから生まれる霧なんだ。霧が濃くなると、数字が読めなくなって、形が崩れて、道が消えちゃう。ナンバーランドの秩序が、どんどん乱れていくの」
ハルは眉をひそめた。
「その霧って、なんで広がってるの?」
「それが……」ピコは少し声を落とした。「ムゲン、っていう存在がいるの。昔はナンバーランドを守ってた人なんだけど、算数を考えることが嫌になって、正確に考えることをやめちゃったの。そのムゲンがカオスの霧を操って、ナンバーランドに送り込んでるんだ」
「算数を考えることをやめた……」
ハルは、さっき心の中で思ったことを思い出した。
大きい数なんて、どうせ生活に関係ないし。
なんだか、少しだけドキッとした。
「ハルちゃんに来てほしいのは、カオスの霧を晴らすためなの。霧を晴らすことができるのは、算数の力だけ。そして、算数の力をちゃんと使いこなせる人間の子どもだけなんだよ」
「わ、わたし? でもわたし、算数苦手だよ? 今日の授業も全然わかんなかったし」
「大丈夫!」
ピコがぱっと顔を上げ、ハルの目をまっすぐ見た。
「ハルちゃんが苦手なのは知ってる。でも苦手でも、ちゃんと考えようとする心がある子じゃないと、算数の力は使えないの。丸暗記したって力にはならないんだよ。考えて、気づいて、なるほど!ってなったとき、初めて力になるんだ」
ハルはしばらく黙った。
ピコの薄紫の羽がふわふわとゆれていた。
「……わかった」
ハルはゆっくり立ち上がった。
「行く。ナンバーランドに」
ピコの顔がぱあっと輝いた。
「ほんと!? やったー! ピコっと計算!」
「じゃあ、まず算数石を受け取って」
ピコが杖を一振りすると、小さな光の粒がハルの胸のあたりにふわりと集まり、青白い宝石のペンダントに変わった。ハルが手で触れると、かすかにあたたかかった。
「それがハルちゃんの算数の力の源だよ。ナンバーランドにいる間だけ、算数の問題を正しく解けたとき、その石が輝いて魔法が使えるようになる」
「どんな魔法が使えるの?」
「単元によって変わるよ。霧を晴らしたり、道を作ったり、壊れたものを直したり。でも必ず、正しく考えないと動かないから注意して」
ハルはペンダントをそっと握った。
「うん。わかった」
「それと——」ピコが人差し指を立てた。「あたしはヒントは出してあげられるけど、答えは教えてあげられないの。ハルちゃん自身が気づかないと、石は光らないんだ。いい?」
「……けっこう厳しいな」
「算数だもん!」
ピコはにっこり笑った。
教科書の光がふたたび強くなった。
表紙に、扉の形をした光の輪郭が浮かび上がってきた。
「算数ドアだ! 開いてる!」ピコが興奮した声を上げた。「行こう、ハルちゃん!」
「え、ちょっと待って、このまま? パジャマで?」
「大丈夫、ナンバーランドに入ったら向こうの服に変わるよ!」
ハルは一瞬、振り返った。
静かな部屋。カーテンのすきまの月明かり。ドアの向こうで眠っているお父さんとお母さん。
ハルはぐっとこぶしを握った。
「行ってきます」
小さく、でもはっきりと言って、ハルは光の扉に踏み込んだ。
次の瞬間、ハルは冷たくてしんとした空気の中に立っていた。
足元は土の地面。頭の上には、現実世界とは違う星が広がっていた。星の並び方が数字の形をしていて、空全体に「0」や「1」が散りばめられているように見える。
あたりは深い森だった。巨大な木々が立ち並び、その幹には数字がびっしりと刻まれていた。
でも、おかしかった。
森の向こうから、白っぽいもやが流れてくる。霧だ。その霧に包まれると、幹の数字がぼやけて読めなくなり、木の形も輪郭を失って、ふわふわと崩れそうになっていた。
「これが……カオスの霧」
ハルはつぶやいた。
「そう」ピコが肩の上に乗って、静かに言った。「この森は『数の森』。一万、百万、一億、百億……大きい数が刻まれた木がたくさんあるんだけど、霧に包まれると読めなくなっちゃう。数が読めなくなると、この森で暮らしてるみんなが困るの」
ハルは空を見上げた。
霧の中に、うっすらと何かが見えた。数字が……崩れていく。
一億。十億。百億。十兆。——それらの数字が、霧の中でぐにゃりと形を変えて、意味をなくしていく。
「あの数字を、ちゃんと読めるようにすれば、霧が晴れるってこと?」
「そうだよ! 大きい数のしくみを、ちゃんと考えて理解できたとき、石が光って霧が晴れる力が出るんだ」
ハルは算数石をそっと見た。
今は暗くて光っていない。
わたしに、できるかな。
不安はあった。でも、ハルは森の奥を見つめた。霧の中に、かすかに温かい光がある。誰かが、助けを待っているような気がした。
「ピコ」ハルは口を開いた。「まず何をすればいい?」
「今夜は、大きい数の森で霧を晴らすことが最初の使命だよ。でもね——」ピコは少し申し訳なさそうに言った。「この森はとっても広いの。大きい数の霧を完全に晴らすだけでも、もう少し先に進まないといけなくて……」
「先に進む? どこへ?」
「森をぬけると、次のエリア『割り算の城』が見えてくるはずなの。お城にも霧が流れ込み始めてるって話を聞いてて。大きい数の力をつけながら進んで、お城まで向かうのが今の目標なんだ」
ハルはうなずいた。
「わかった。じゃあ進もう」
そのとき、森の中からかさかさと音がした。
ハルは思わずピコの腕をつかんだ。
「な、何?」
「大丈夫だよ、きっと——」
音が近づいてくる。
がさっ、がさっ。
木の陰から現れたのは……まだハルには見えなかった。霧が濃くて、輪郭がぼやけている。
「あれは……」ピコが目を細めた。「霧に迷いこんだ誰かかな。次に会う仲間かもしれない。行ってみよう」
ハルは大きく息を吸った。
パジャマの代わりに、いつの間にか赤いマントに水色の服に着替えていた。胸には算数石のペンダントが光を待っている。
大丈夫。ちゃんと考えれば、きっとできる。
ハルはピコと一緒に、霧の深い数の森の奥へと踏み出した。
割り算の城へと続く道を目指して。