扉を押し開けた瞬間、ひんやりした空気がどっと流れ出てきた。
城の中は広かった。石造りの床と壁、高い天井。松明のような光がいくつか灯っているが、それでも薄暗い。壁のあちこちに「÷」の紋章が刻まれていて、床には大きな数字のタイルが並んでいた。
でも、おかしかった。
タイルの数字が、ところどころ欠けている。「3」が「?」に変わっていたり、「148」が霧でかすれて読めなくなっていたり。壁の紋章もひびが入り、天井のすみからカオスの霧がじわじわと染み込んできていた。
「ここもひどいな……」
ハルはつぶやいた。
「お城の中心にある『割り算の間』に、大きなフォグナンバーがいるはずだよ」ピコが言った。「そいつが霧の発生源になってるの。そこまでたどり着ければ、お城全体の霧を晴らせる」
「『割り算の間』はどこ?」
「この廊下をまっすぐ進んで、一番奥の大きな扉の向こう」
シロがぴょんと前に出た。
「ボクが道案内するよ。この城、前に来たことあるから」
「頼りになる!」
ハルはシロの後ろについて歩き始めた。
廊下を進むにつれ、壁の霧が濃くなっていった。
ハルの足元で、床のタイルがひとつ、ぽっと光った。タイルに式が浮かんでいる。
3 ÷ 1「あ、これは簡単——」
「待って」シロが立ち止まった。「それはわなだよ。霧が強いエリアだと、簡単そうに見えて実はひっかけになってる式が出てくることがある。焦って答えないで、ちゃんと見て」
「ひっかけ……? でも3÷1は3でしょ」
「うん、それは合ってるよ。でもこれを見て」
シロは床を三歩進んだ。別のタイルがぱっと光った。
3 ÷ 13「あ……桁が違う! さっきは1だったのに、13になってる」
「そう。霧の中だと数字がにじんで見えることがある。だから式を読むときは焦らず、位をちゃんと確認してから計算する癖をつけて」
ハルは深く息を吸った。
「わかった。焦らない」
廊下の途中に、横道があった。シロが右に曲がろうとして、ぴたりと止まった。
「……ちょっと待って」
「どうしたの?」
シロの鼻がひくひくした。
「この先、式がたくさんある。でも霧がすごく濃い。フォグナンバーの群れじゃなくて……もっと大きい何かかもしれない」
ピコがシロの隣に降り立って、目を細めた。
「これって……中ボスの霧将軍フォグジェネラルじゃないかな」
「霧将軍!?」ハルは声が裏返った。「何それ、初耳なんだけど」
「ごめん、言ってなかったね」ピコが頭をかいた。「フォグナンバーをまとめてる、少し強いフォグナンバーのことだよ。体が大きくて、出してくる式も難しい」
「どのくらい難しい?」
「二けたで割る式だよ」
シロが静かに言った。ハルは思わず唾を飲み込んだ。
「に、二けた……たとえば?」
「たとえば——」シロが地面に爪で書いた。
96 ÷ 12 84 ÷ 21 75 ÷ 25「こういうやつ。割る数が二けたになると、考え方が変わってくるよ」
「えっと……どう変わるの?」
「今から説明する」シロは振り返り、ハルの目をまっすぐ見た。「行く前に、ちゃんと理解してから戦おう。焦って間違えたらまずいから」
三人は廊下のすみに腰を下ろした。シロが地面に丁寧に書きながら説明を始めた。
「二けた÷二けたでも、基本的な考え方は一けたで割るのと同じ。位ごとに考えること、余りを下ろすこと——でも一つだけ、新しいことがある」
「何?」
「割る数が二けたになると、商のめどをつけるのが難しくなるの。一けたなら、九九を使えばすぐわかったでしょ?でも二けただと九九がそのまま使えないから、まず『だいたいいくつかな』と見当をつける必要がある」
「見当をつける……?」
「うん。たとえば96÷12を考えてみよう」
96 ÷ 12「12を、まず『だいたい10』と思って見当をつける。96÷10はだいたい9。だから商は9くらいかな、と予想する。そして12×9=108……あ、108は96より大きいから、9は大きすぎた」
「じゃあ一つ減らして8?」
「そう!12×8=96。ぴったり!だから答えは8」
96 ÷ 12 = 8「なるほど……まず見当をつけて、かけてみて、大きすぎたら一つ減らすんだ」
「逆に小さすぎることもあるよ。たとえば——」シロは続けた。
84 ÷ 21「21を『だいたい20』と見て、84÷20はだいたい4。だから商は4かなと予想。21×4=84。ぴったり!答えは4」
84 ÷ 21 = 4「次はこれ」
75 ÷ 25「25を『だいたい20』と見て、75÷20はだいたい3。25×3=75。ぴったり!答えは3」
75 ÷ 25 = 3ハルはうんうんとうなずきながら、頭の中で整理した。
「まとめると——まず割る数を丸めて見当をつける、かけて確かめる、大きすぎたら減らす、小さすぎたら増やす、ってこと?」
「完璧!」シロがうれしそうに耳をぴんと立てた。「あともう一つ、余りが出る場合も練習しておこう」
97 ÷ 13「13を『だいたい10』と見て、97÷10はだいたい9。でも13×9=117、大きすぎ。8にしてみると、13×8=104、まだ大きい。7にすると、13×7=91。97から91を引くと余りは6。6は13より小さいからOK。答えは7あまり6」
97 ÷ 13 = 7 あまり 6「余りは、割る数より小さくないといけないんだよね」ハルが確認した。
「そう!余りが割る数と同じか大きかったら、商をもう一つ増やせるってことだから、まだ割れるってことになる。だから余りは必ず割る数より小さくなるまで計算する」
「わかった」
ハルはもう一度、さっきの式を頭の中で復習した。
見当をつける。かけて確かめる。余りは割る数より小さく。
算数石がじわりとあたたかくなった。
「準備できた?」シロが聞いた。
「うん、行こう」
三人は横道の奥へと進んだ。
霧がぐっと濃くなった。松明の光もここまでは届かず、ハルの算数石の光だけがうっすらと足元を照らしている。
部屋の奥に、それはいた。
フォグジェネラル——霧将軍。
普通のフォグナンバーの三倍はある大きさで、体中に霧がまとわりついている。体の表面には「?」マークがいくつも点滅していて、近づくだけで冷たい霧が肌に刺さるように感じた。
「大きい……」
ハルは思わず後ずさりしそうになったが、ぐっとこらえた。
フォグジェネラルの体に、じわりと式が浮かび上がった。
三つ同時に浮かんでいる。
「三つ一気に解かないといけないの!?」
「できるよ」シロが隣に並んだ。「ハルちゃんが全部考えられたら、石は一気に三発分の光を出せる。焦らなくていい。一個ずつやろう」
ピコがハルの肩に乗って、静かに言った。
「ハルちゃんなら大丈夫。さっきちゃんと理解したんだから」
ハルは算数石を両手で包んだ。
深呼吸。
まず一つ目。
96÷12。12を丸めて10。96÷10はだいたい9。でも12×9=108、大きすぎ。12×8=96、ぴったり。答えは8。
「8!」
算数石からひと筋の光。
二つ目。
84÷21。21を丸めて20。84÷20はだいたい4。21×4=84、ぴったり。答えは4。
「4!」
またひと筋の光。
三つ目。
75÷25。25を丸めて20。75÷20はだいたい3。25×3=75、ぴったり。答えは3。
「3!」
三筋の光が一本に束になって、フォグジェネラルにまっすぐ飛んでいった。
ぴかああああっ!!直撃。
フォグジェネラルの体の「?」マークが全部、一瞬で数字に変わった。「8」「4」「3」——そしてぱああっと強い光が弾けて、霧将軍の体が霧に溶けるように消えていった。
部屋の中の霧がすっと晴れた。
石造りの壁があらわになり、埋め込まれたたくさんの「÷」の紋章が金色に輝いていた。
「やったあ!!」
ピコが宙返りしながら叫んだ。
シロがぴょんぴょんとハルの周りを跳ね回った。
「完璧だったよ、ハルちゃん! 三つ全部、考え方もばっちり!」
ハルはへなへなとその場にしゃがみ込んだ。膝がちょっとがくがくしていた。でも、胸の算数石はこれまでで一番強く輝いていた。
横道を戻り、廊下の奥へと進むと、予告通り大きな扉があった。
「割り算の間」と金色の文字で書かれている。
扉を押すと、広い丸い部屋に出た。天井がとても高く、中央に大きな「÷」のモニュメントが立っている。そのモニュメントが、今はぼんやりと光を放っていた。霧は完全に晴れていた。
部屋のすみに、小さな生き物がうずくまっているのが見えた。
ハルが近づくと、それは顔を上げた。小さなネズミだった。服を着て、くたびれた表情をしている。
「あなたたちが……霧を晴らしてくれたの?」
「うん。大丈夫だよ、もう霧は消えたから」
ネズミは目に涙をためた。
「よかった……ずっとここに閉じ込められてて、外に出られなかったの。霧の中で式がぐちゃぐちゃになって、何が正しいのかわからなくなって……」
「もう大丈夫」ハルはネズミの前にしゃがんでにっこり笑った。「式は難しくても、順番通りに考えれば必ずわかるから」
ネズミはこくんとうなずき、扉の方へと駆けていった。
しばらくして、三人は割り算の間の中央で向かい合っていた。
「ピコ」ハルが言った。「カオスの霧って、どこから来てるの?ムゲンって人が送り込んでるって言ってたけど、その人はどこにいるの?」
ピコは少し遠い目をした。
「ナンバーランドの一番深いところ……『ゼロの荒野』って場所にいるって言われてる。でもそこに着くまでには、まだたくさんのエリアを通らないといけない」
「そこまで行けば、ムゲンを止められる?」
「……たぶん。でも」ピコは言葉を選ぶように続けた。「ムゲンはね、もともと悪い人じゃないと思うの。ただ、算数を考えることをやめちゃっただけで……だから、やっつけるよりも、もう一度わかってもらえたら、って思ってる」
ハルはその言葉を、胸の中でそっと温めた。
算数を考えることをやめた人。わたしも今日の朝まで、ちょっとそうだったかも。
「わかった。先を急ごう」
ハルは立ち上がり、算数石をぎゅっと握った。石はあたたかく輝いていた。
割り算の間を抜け、お城の反対側の出口に出た。
目の前には、開けた道が続いていた。道のむこうに、なだらかな丘陵地帯が広がっている。丘の上に、斜めに傾いた橋が見えた。
「あの橋……」
「角度の丘だよ」ピコが言った。「次のエリア。橋が曲がってしまってて、渡れなくなってるって話だった」
「橋が曲がってる?なんで?」
「角度の霧に侵されると、まっすぐなはずのものが傾いてしまうの。正しい角度を取り戻さないといけない」
シロが横でぴょんと跳ねた。
「角度って、分度器で測るやつ?」
「そう。ハルちゃん、分度器は使えた?」ピコがハルを見た。
「うーんと……学校でちょっとだけやったけど、あんまり自信ない」
「大丈夫だよ。行きながら考えよう」
ハルは傾いた橋を遠目に見ながら、深く息を吸った。
風が吹いて、丘の草がさらさらとなびいた。
「行こう、シロ、ピコ」
「うん!」「ピコっと計算!」
三人は角度の丘へと向かって歩き始めた。